一度見たら忘れられないトンガリ頭! フィンランドの鬼才アキ・カウリスマキ監督が描く、ソ連のバンドがアメリカを目指す奇想天外なロードムービー『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』。それは「アホと独裁者のトンデモ珍道中」であり、シュールな笑いと独特の哀愁に満ちている。1989年の作品ながら今なお色褪せない唯一無二のヴィジュアル、搾取や不条理さえ笑いに変えるカウリスマキ流のユーモア、そしてその奥に潜む温かな視点。カルト的人気を誇るこの傑作の魅力を解き明かす。
一度見たら頭から離れない、それがレニングラード・カウボーイズ。
一度見たら忘れられない映画って、いくつあるだろうか。記憶に深く刻まれ、ふとした瞬間に観返したくなるような作品たち。私の場合はどうだろう?そう思いながらFILMARKSに登録した映画を遡ってみると、『ライフ・イズ・ビューティフル』、『気狂いピエロ』、『トレインスポッティング』、『グランド・ブダペスト・ホテル』、『裏切りのサーカス』、『インセプション』、『ガタカ』…我ながら名作ばかりが並ぶ。
ああ、我ながら、名作揃いである。ニッチな映画も好んでみる派の私だが、こうして好きなタイトルを集めてみると意外にも知名度の高い作品が列挙される。
常に自分の手元に置いておきたい本を意味する常に手元に置いておきたい「座右の書」ならぬ「座右の映画」。これらの映画はふとした時に見たくなる映画であり、なんならいつでも観れるようにiTunesで購入し、少なくともそれぞれ3回は見ているマスターピースたちである。
そして、これらのビッグタイトルに勝るとも劣らない、強烈な引力を持つ正真正銘の傑作が、『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』(1989年)なのである。一度観たら、あの奇妙な出で立ちとシュールな世界観が、文字通り頭からこびりついて離れないのだ。
再会のきっかけ:ストックホルムとストリーミングの壁
なぜ今、この映画なのか? きっかけは、先日ブログで取り上げたファッションブランド「Stockholm Surfboard Club」だった。彼らの持つ、どこかカントリーでサイケデリックな雰囲気に触れた瞬間、私の脳裏には即座に、あのトンガリ頭の男たちの顔が浮かんだのだ(この連想は、おそらく私だけだろうが)。
「ああ、無性に『レニングラード・カウボーイズ』が観たい…」
しかし、最近の私の映画鑑賞はNETFLIXとAmazon Prime Videoに完全に依存しきっていた。便利な反面、アルゴリズムによって最適化された「おすすめ」ばかりが表示され、その中で見れる映画しか深掘りしてこなかった。自分の興味の枠が知らず知らずのうちに狭まってしまうのが悩みどころである。この映画と再開したのは、そろそろ目新しいものを見たいという欲に飢えていた、そんな時期だった。調べてみたらU-NEXTでこの映画がラインナップされていたので早速視聴を開始した。

一周回ってセンスの塊、それがレニングラード・カウボーイズ。
天高く突き立つトンガリ頭に、同じく鋭角に尖ったトンガリ靴。顔の半分を覆う流線型のサングラスに、重厚なクラシックスーツ。これが、レニングラード・カウボーイズのアイコニックなスタイルだ。1989年の映画とは思えないほど、そのヴィジュアルは今見ても全く色褪せない。むしろ、一周回って、いや何周も回って、とんでもなく「イケてる」のではないか!
(1989年といえば、日本では『ニューシネマパラダイス』『魔女の宅急便』『バットマン』といった映画が上映された年である。時代背景を推察するに、突如スクリーンに現れた彼らの存在はとんでもなく歪な存在だったであろう。)
あえて醸し出される場末感、三流感。なのに、どうしようもなくクール。この絶妙なバランス感覚、トンチンカンな雰囲気がたまらない。70~80年代のグラムロックやニューウェーブの残り香を感じさせつつ、どのカテゴリーにも収まらない唯一無二の存在感。ファッション的な観点から見ても、彼らのスタイルは長い熟成期間を経て、まさに「今こそ旬」と言えるのではないだろうか。
皮肉を笑いに変えるスーパーヒーロー、それがレニングラードカウボーイズ。
ここで、ChatGPTに『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』を解説してもらってみた。
『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』は、ソビエト連邦の音楽バンドがアメリカへのツアーを夢見て奮闘するコメディ映画です。1980年代の冷戦時代に、西洋のロック音楽とアメリカのカウボーイ文化に魅了されたバンドメンバーたちの物語が描かれます。
この映画は、音楽と文化の融合を通じて、自由への渇望や限られた環境の中での創造性をテーマにしています。登場人物たちの個性豊かなキャラクターが、音楽と自由を求める情熱と政治的な状況の中での苦悩を抱えながらも、ユーモアと勇気を持って生き抜く姿が描かれます。作者の描写はシニカルな一面もありつつ、心温まる要素も含んでおり、視聴者は彼らの成長や変化を共感しながら追体験できます。
この作品は、音楽、ユーモア、そして異なる文化の対立と融合を通じて、希望と夢を描き出します。冷戦下での政治的・文化的な障壁や誤解に直面しながらも、バンドメンバーたちの夢と情熱は揺るぎません。彼らの魅力的なキャラクターや、異なる文化間でのコミュニケーションの試みが、笑いと感動をもたらし、観客に夢と希望を与える素晴らしい作品です。
Chat GPT 3.5
…完璧すぎる回答だ。もはや私の出る幕はない。…と言いたいところだが、私なりに、もっと端的に、愛を込めてこの映画を表現するならば、それは「ロシアが生んだアホと独裁者のトンデモ珍道中」に尽きるだろう。
ポイントは、ChatGPTの解説にもあった「シニカルな一面もありつつ、心温まる要素も含んで」いる点。登場人物たちは、お世辞にも賢いとは言えない「アホ」ばかり。バンドメンバーは純粋(というか愚直)で、マネージャーであり絶対的独裁者のウラジミールは、彼らから搾取し放題。なのに、観ていて全く不快にならない。なぜなら、その独裁者ウラジミール自身も、救いようのない「アホ」だからだ。
笑撃の珍場面集:これがカウリスマキ流ユーモア!
彼の「アホっぷり」と、それに振り回されるメンバーたちの姿を描いた珍場面は枚挙にいとまがない。
例えば…
- 一旗上げようとアメリカに到着した一行が旅先で初めて見つけた演奏できるバーでは、その日の稼ぎを使って独裁者ウラジミールが一人でステーキを注文。持ち帰り用の容器を店員に要求するので、たった一枚きりのステーキを外で待つメンバーたちと分かち合うのかと思いきや、メンバーの前を通り越してまさかの犬に餌付け。シュールすぎる。
- 後部座席にはビールの空き缶が大量に発生し、メンバーはどこからビールが湧いて出てきているのか不審げな面持ち。休憩がてら駐車したガソリンスタンドでメンバーが用を足している間にその事態の全容が見えてくるわけだが、ウラジミールは車の上に載せた棺桶(ここの説明は省略)に遺体が氷を張っており、そこでビールを冷やしていた。そしてみんながトイレでいない間にプシュッと一人で飲酒。
- リーダーの搾取によりメンバーからは腹へったの声。即座に立ち寄ったスーパーでリーダー自ら買い出ししに行くかと思えば、買ってきたのはまさかの玉ねぎオンリー。メッシュ袋の中から一人ずつ玉ねぎを支給され、路端に座り込んで黙々と生ネギを齧り倒す。そして気になるリーダーの動向だが、私は連絡するといって姿を隠し、コートの中に隠し持っていたパンらしきものを美味しそうに頬張っている。
私の文章力ではこの面白さは到底伝えきれない。ぜひ本編で確認してほしいのだが、こんなコントのような場面が、絶妙なテンポと、俳優たちの真顔によって、次々と繰り出される。爆笑というより、ずっと面白いニュアンスが漂っている。映画というより、作りこまれたコントをひたすら見ているかのようであり、この独特のユーモアこそが、本作の大きな魅力だ。
フィンランドの鬼才:アキ・カウリスマキの世界
しかし、それにも関わらず単なるおバカコメディで終わらない、メッセージ性を強く感じるのは、フィンランドの鬼才アキ・カウリマスキ監督作品たる所以だろう。
彼は一貫して、社会の片隅で生きる人々の孤独や、人生の不条理を、独特のオフビートなユーモアと、ミニマルな映像美で描き続けてきた監督だ。「敗者三部作」をはじめ、彼の作品は決して明るいとは言えない題材を扱いながらも、不器用で愛すべき登場人物たちを通して、観る者に不思議な温かさや人間味を感じさせる。
本作も例外ではない。冷戦下の東西対立という社会背景を匂わせつつ、成功を夢見て異国の地で悪戦苦闘する(主にアホな理由で)バンドの姿は、どこか物悲しく、しかし同時に滑稽で愛おしい。シニカルな視線の中に、確かな人間賛歌が息づいているのだ。U-NEXTで観られる彼の作品群はどれも、このシニカル&アイロニカルな魅力に満ちている。
終わり。