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【デヴィッド・リンチ】DUNEに挑む鬼才のアーティスト

【デヴィッド・リンチ】DUNEに挑む鬼才のアーティスト
Chat GPT4によるこの記事のハイライト

デヴィッド・リンチ監督は映像作品だけでなく、絵画、写真、音楽といった幅広い芸術分野で活躍するアーティスト。『デヴィッド・リンチ:アートライフ』では、彼のアートへの情熱と創造性の源泉が明らかにされている。リンチの大きな才能は、アメリカの小さな田舎町で育った。彼の作品は内面の複雑な感情を強烈に表現しており、映像よりもアート表現そのものにその源泉があると言える。また、リンチは『DUNE 砂の惑星』の実写化に成功した初の監督であり、彼の独特な世界観はこの作品にも反映されている。この記事では、リンチ版『DUNE』を通じて、彼の創造的な才能と、映画というメディアを超えたアート作品としての彼の作品を探求している。

映像だけじゃなかった鬼才デヴィッド・リンチの才能

ここ最近、デヴィッド・リンチ監督の名前がふとした時に出てくることが多くなってきた。映像作品だけにとどまらず、絵画、写真、そして音楽など、芸術分野で広く活躍するデヴィッド・リンチという存在。幼少期から長編デビュー作『イレイザーヘッド』に至る過程を自らが語るドキュメンタリー『デヴィッド・リンチ:アートライフ(字幕版)』では、幼い頃からアトリエに入り浸り、アート制作に没頭していた過去を知ることができる。

デヴィッド・リンチという大きな才能の塊が生まれ育ったのは、アメリカの小さな田舎町。ごく小さな生活半径の中で暮らしていた彼は、有り余る創造性がありながら、それを爆発させる場所がなかった美術の授業では作品製作で決まったやり方を求められ、通う意味がないから出席しなかったと語り、早熟の天才性が伺える

絵を描くのが好きな僕への母の一番の思いやりは決して塗り絵を買い与えなかったこと。弟や妹はもらっていた。母はなぜか感じ取ったのだろう。塗り絵が足かせになって創造性を殺すこともあるとね。母は際どい冗談など決して言わない人だった。

引用|『デヴィッド・リンチ:アートライフ(字幕版)』

常にアートと向き合ってきたことが伝わってくるドキュメンタリーの一節。映像では、リンチが描いたアート作品とともにストーリーが進んでいくのだが、これを見るとリンチ作品の全てのエッセンスがここに詰まっていることがわかる。内面に宿した鬱屈とした繊細な感情が、表現手段を手に入れた瞬間に暴力的とも言えるほどに爆発していく。リンチの源泉は映像ではなくむしろアート表現そのものにあったのだ

引用|UPLINK

先日書いたブログ記事(【HOSOO】京都発、世界を魅了する究極のテキスタイル。)でもデヴィッド・リンチの名前が出てきている。京都の老舗西陣織ブランドHOSOOとデヴィッド・リンチがコラボしたテキスタイルの個展「DAVID LYNCH meets HOSOO」を写真で紹介した。

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そして今回デヴィッド・リンチの名前が出てきたのは、DUNEの実写化に初めて成功した人物としてであった。

『DUNE 砂の惑星』という魅惑の超大作SF小説

ゴールデンカムイの実写映画を見に行った際、予告ポスターを見て気になった作品『デューン 砂の惑星 PART2』。映画を待つ時間、館内に貼られたティモシー・シャラメの美しい顔が映えるポスターに目が止まった。その他にも、ゼンデイヤ(グレイテスト・ショーマン)、ハビエル・バルデム(それでも恋するバルセロナ)、ステラン・スカルスガルド(パイレーツ・オブ・カリビアン)、オスカー・アイザック(インサイド・ルーウィン・デイヴィス)など、主役級の錚々たる俳優陣が揃っている。それだけで絶対面白いと期待させてくれる映画だ。

引用|Warner Bros: 映画『デューン 砂の惑星PART2』公式サイト

DUNEと言えば、1965年に第一作目が発表されたSF小説シリーズで、スターウォーズやエイリアン、風の谷のナウシカといった、歴史に残る数々の名作に影響を与えたと言われる偉大な小説だ。作品発表の一年前が東京オリンピック開催年であり、60年ほど経過した今でもこうして語り継がれるほどにカルト的な人気を博す名作として知られる。

「DUNE 砂の惑星」を一言で表すと、砂の惑星にしかない希少な香料「メランジ」を争う全宇宙をかけた戦いの物語。物語の鍵となるメランジという香料は、コショウやターメリックのようなただのスパイスではなく、人々の意識を拡張させ、目を青く染める不思議な物質として登場する。この小説が書かれたのはヒッピームーブメント全盛の時代。若者が退廃的でサイケデリックな世界観に溺れた時代だ。メランジは当時のドラッグ文化の比喩とも言われており、カウンターカルチャーに傾倒する人々を中心に熱狂的なファンがついた。そして今では時代を超えてSFのバイブルとして読み継がれている

最先端の作り込まれた世界観と壮大なシナリオは多くの人を虜にする。作品発表以来、数々の映画監督がこのDUNEの映画化を熱望する一方で、この超大作SF小説の映画化にはかなりの困難が強いられたようだ。一番最初に映画化に挑んだのは「エルトポ」「ホーリーマウンテン」などを生んだカルトの巨匠ホドロフスキー監督。結果は失敗。公開にすら至らず、製作を中断したという歴史がある。この映画に向けてホドロフスキー監督は意気込みが強すぎ、空回りしてしまったようだ。キャストにサルバドール・ダリ、ミック・ジャガー、ピンク・フロイドなどの超大物を次々と起用し、特殊効果もモリモリ詰め込み、絵コンテも映画の上映時間に収まりきらないほど長くなったりと、全てのスケールが大きすぎたため、幻の傑作として後世に語り継がれることとなる。この一連のストーリーは、『ホドロフスキーのDUNE』に記録されている。

リンチ版DUNEに見る監督が描く唯一無二の世界観

その後、1984年に初めて映画化に成功したのがデヴィッド・リンチ監督だった。しかし、ようやく映画公開に至ったDUNEだったにも関わらず、これが酷評の嵐だった。私もリンチ版DUNEを見てみたが、確かに酷かった。映像が古いとかそういうことではなく、ストーリーが長すぎてシナリオがグダグダなのである。あんなにグダグダな映画を見るのは初めてだと思うくらいだった。このリンチ版DUNEについてよく説明されるのは「小説のダイジェストのような映画」であるということ。ストーリーを進める上でのSF特有の背景設定が難しいため、その説明に上映時間の大半が取られてしまい、後半はほぼやっつけ仕事のような構成になってしまっているのだ。不自然すぎて逆に面白くも見えてしまうところがすごいのだが、ところどころデヴィッド・リンチ感が出てくるのが興味深い。ストーリーはダメダメでも、デヴィッド・リンチの世界観はしっかりと生きている。

映画を、映画と思わせないリアリズムで描くか、映画は映画だとして虚構を盛りまくるのか、それは監督の采配次第だ。最新版のデュニ・ヴィルヌーヴ版DUNEを見ると、映画は監督次第でいかようにも変わってしまうことがよくわかる。ヴィルヌーヴ版は実際の砂漠で撮影し、音楽もリッチに作り込み、架空の惑星の物語のはずなのに現実世界かと錯覚を起こすようなリアリティがあった。リンチ版のDUNEは、スタジオセットの狭い空間でひたすら物語が進行していく、今となっては違和感しかないセッティングなのだが、当時はどう見えていたのだろうか。ただ、こうした人工的とも言える世界観の作り込みがデヴィッド・リンチ監督の持ち味なのだと思う。デビュー作『イレイザーヘッド』をはじめとしたリンチ作品全てにおいて、作り込まれた世界観が見事に反映されているのがわかる。

また、セットだけでなく、登場キャラクターもなかなかに秀逸だ。特に二大勢力のうちの一つハルコンネン家のキャラクター設定は、原作でもこんな感じなの?と思ってしまうほど、いい意味でリンチ感に溢れていた。まさに映画のためのキャラクターという感じだ。ハルコンネンの当主は一発でヤバい奴とわかるようなキャラ作りがなされ、ひたすら奇声を発し、カルト映画然とした装いでサイコパス全開(以下の引用画像参照)。また、その息子には若き日のスティングを起用。代表曲『Englishman in New York』で有名なあのスティングだ。リュック・ベッソンの『フィフス・エレメント』を思い出すようなオレンジ色に染まった逆立ったヘアスタイルに、近未来感のあるダークブルーのボディースーツ。常に不気味な笑みを浮かべ、薄気味悪い役を演じきっている

ハルコンネン家当主 (引用|CINEMORE)

時代が早すぎたリンチ版DUNE

リンチ版DUNEが公開される時代は、まだ二部作で作品を公開するという考え方が一般的ではなかった。ハリウッドの制作会社に金銭的余力があまりない時代、ヒットするかわからない作品に予算を投じる決断が難しかったのだろう。二部作制はその後に発表されたスターウォーズシリーズで浸透し始め、制作会社もそれを前提として予算編成をできるようになったというのを聞いたことがある。

DUNEを映像化するにはまだ時代が早かったということなのだろう。二部作にすればもっとストーリーに厚みを持たせることもできただろう、撮影や編集が進歩すればもっと具体的なイメージを魅せてくれたであろう。そういう意味でも、ヴィルヌーヴ版DUNEから漂ってくる「機は熟した」と言わんばかりの圧倒的映像美と大迫力サウンドは、ぜひ映画館で楽しんでみたい。

私はデヴィッド・リンチを語るほど作品を見ていない。しかしながら、デヴィッド・リンチといえばこんな感じという、確固たるイメージは出てくる。作家性の極みである。リンチ版DUNEは、DUNEを楽しむための映画ではなく、デヴィッド・リンチが超大作に挑んだ歴史を楽しむ映画として、見返してみたい。

DUNE原作小説

参考記事




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